公立ルートを行く

公立中学校、公立高校で文武両道を目指し、自分のベスト大学に進学する!!

非認知能力を育み一生の財産にするのが公立ルートだ

公立ルートは子供が親に決めさせた

 私は、子供(娘)が生まれたときから小学1年生になる頃までは、子供に私立中学を受験させるつもりであった。SAPIXの前を通る度に「いずれここに通わせることになるなぁ」と思っていたのである。しかし、子供が小学1年生になった頃、非認知能力*1の高い子供であることに気が付いた。とにかく何にでも関心を持って一生懸命に取り組むのである。そんな子供を見守っているうちに、中学受験に突然シフトしてしまったら、子供の非認知能力の自然な発達に水を差すことになると考えて教育方針を変更し、公立ルートで行くことに決めた。子供が親に公立ルートを決めさせたのである。

 

子供の非認知能力が高くなった外的要因
(これしか思い浮かばない)

 ①ゲーム機を与えなかった。
 ②妻が子供と何時間でも遊んだ。

 

非認知能力は小学校の授業を満喫することで育まれる

 小学校の「主体的・対話的で深い学び」の視点で選ばれた学習教材と授業運営は、想像以上に素晴らしい内容になっている。小学校の授業を満喫することで、子供が元々持っている非認知能力は育まれると思う。親は子供の小学校での頑張りを応援してあげるだけである。

 

 非認知能力をネットで検索すると、「非認知能力をどのように育てるか」「非認知能力をどのように鍛えるか」といった話が上位にくる。非認知能力の重要な要素は主体性である以上、外から(子供の非認知能力に)直接働きかけてもその能力は発達しないのではないだろうか。親ができるのは、子供が主体的に取り組む環境を与えるところまでだと思う。しかし、それではまだるっこしいので、直接働きかけるような話になるものと想像する。

 

自己肯定感が大事

 小学6年生の時のエピソードになるが、子供は二重跳びが最初は1回か2回しかできなかった。最初から器用にできるタイプではない。友達には100回以上連続で跳べる子もいた。しかし、子供は「1回できた!」と考えるのである。100回跳べる友達のことを羨ましいとは思わない。そして、近くの公園に何度も行き、二重跳びの練習をする。こうして連続10回できるようになると、「二重跳びが連続10回できるようになった!」と自信を持つのである。私は、この小さな成功体験の積み重ねが自己肯定感につながっていくんだと感心した。

 

 簡単なことに取り組み、その子なりにできれば、小さな成功体験が積み重なっていく。

 

 非認知能力は6歳までに決まるとも言われている。小学校卒業までには、その能力はかなり形成されているだろう。非認知能力の発達を後回しにすることはできないのである。ところで、小学校3年の2月から実質スタートする中学受験は、子供の非認知能力の発達にどういう影響を与えるのであろうか。この問題については、いずれ取り上げたい。

 

高校卒業までに一生モノの学力を身につける

 公立中学校では、それまでに育んだ非認知能力を武器にして、学校活動(学習を含む)に取り組む。高校では、物事を多面的に観察し主体的・創造的に考える力(以下、一生モノの学力)を身につけ、大学で専門分野に進んでいく。

 

 「一生モノの学力」は、非認知能力を育んできた子供でないと身につき難い。勉強を受験で勝つために必要なものと捉えるのではなく、自分を豊かにするものとして捉えるところから始まるからだ。子供がAI時代を生きていく上で、この「一生モノの学力」を持つことが重要であると私は考えている。本当のことを言うと、「一生モノの学力」は、子供が小学6年生のときに担任のH先生の指導を通じて身に付けた考え方である。

 

非認知能力は生涯にわたって最大の武器になる

 非認知能力は社会人になってからの方がさらに重要になり、最大の武器になる。学生時代はテストで高得点を取ったり、スポーツで良い成績を取ったり、目に見える成果の方が評価されるかもしれない。しかし、社会人になれば、どんな会社や組織に属するにしても、リーダーシップと協調性が一番重要になる。

 

 非認知能力が人生で一番重要であり、生涯にわたって最大の武器になる。親としては、子供がこの能力を自然に発達させていく姿を見守りたい。

 

 現在、MLBで大活躍している大谷翔平選手がこれほどまでに全ての人に愛されるのは、唯一無二の二刀流プレーヤーであることに加えて、非認知能力が非常に高い人物であるからだと思う。

 

このブログについて:

 公立ルートの申し子のような子供が自発的に歩んでいる姿に触発されて、このブログを書き始めた。ただ、私自身は子供と違って打算的なところがあるので、このブログの内容は、ある時には理想を語り、またある時には打算的な考察を語る、といった二面性を持つことを今更ながら断っておきたい。

 

*1:物事をやり抜く気力であったり、協調性であったり、数値で測定することのできない生きる力を指す。